ドイツRaum&Zeit社の文献 2 [波動]

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『波動のマジックボックス -SE-5による分析とバランス-』 (ドン・パリス著)より

飛躍的な展開

ERA法にはまだ欠陥がありました。いくつかの異なった病気が腹部の同じ場所で同じ反応パターン___音あるいは「くっつく」___を起こしてしまっていたのです。例えば、癌と梅毒は同じ場所で同じ音で反応するために識別が不可能でした。アブラムスが以前に行った別の研究で、病気は体内の原子の電気的な結合を変化させてしまうということが分かっていました。これらの電気的な手法が理論的に統合されてこの問題の解決を図ることになりました。
最初に彼は、被験者と組織サンプルのあいだに電気抵抗を入れてみました。しかしそれは単に電気信号を弱めるだけのようでした。しかし、さまざまな試行の結果、不思議な効果が発見されました。電気抵抗を50オームに設定すると、癌に対する反応は出るのですが、梅毒に対しては出ません。それを今度は55オームにすると、梅毒が現れて癌が出なくなるのです。
これは全くの飛躍的な展開でした。血液サンプルと被験者の間に普通の電気抵抗のボックスを接続して、その抵抗値を変えて「チューニング」することで病気が判別できるようになったのです。アブラムスは、彼の「Reflexophone」と呼ばれる、非常に正確に電気抵抗値を測定できる装置を使って、それぞれの病気をことの値を測り、それを彼の打診用マップに記入していきました。彼はまた、血液サンプルを蓄電器のプレートの間に置くと音の反応が増すことも発見しました。彼はこの装置を「Dynamaizer」と呼びました。

最初のラジオニクス

しかし、まだ何かが欠けていました。診断は完璧でも治療がまだだったのです。2つの観察から彼の「ミッシング・リンク(失われた輪)」への探求が始まりました。ひとつめは、キニーネのような治療薬の「波動」が打診における音の効果を打ち消してくれること。ふたつめは、地球の磁場がそれに匹敵する効果を持つこと。彼が提案した打診法で診断するためには患者は常に西を向いていなければなりませんでした。そのほかの方角は全て、この打診による音を消してしまうのです。
このことが、電磁気の刺激を使った実験へとつながってゆきました。才能のある開発者であったサミュエル・ホフマンと共にさまざまな試行錯誤を繰り返した後、最初のラジオニクス治療装置である「Osilloclast」が作られました。Osilloclastは毎秒200回のサイクルを持った弱い電波を発生しました。そして、その回路の一部として患者はこの装置につながれました。
Osilloclastとその後改良されたReflexophoneによって、ここに完全なラジオニクス装置ができあがりました。その治療にかかる時間はおよそ1時間でした。
ERA法はこうして完成され、彼の生徒や仲間たちに何年間も教えられました。しかし、このころロックフェラーは製剤会社に多大な投資をしていたので、アブラムスの電気的な治療をいかがわしい信用のならないものだという領域におしこめてしまうための非常に効果的な運動を繰り広げました。電気抵抗を入れただけの簡単な箱は「魔法の箱」として神秘化され、製薬業界は医学界の権力者たちの間には大きな危惧が広がっていきました。こうしてこの技術は、不合理でばかげたもの、というカテゴリーに分類されるようになってしまいました。
1924年、突然の死によってアブラムスのたゆまぬ研究は終わりを告げました。その後長い年月、彼の研究を受け継ごうという研究者は現れなかったのです。

植物の治療

もしアブラムスのERA法の基本的な理論が正しければ、これは全ての生命体に適応できるものだと考えたカーティス・P・アプトンは、エジソンの共同研究者の息子でした。彼は植物に働きかける方法を探していたのです。彼はこの目的のためにアブラムスの装置を改造しました。
彼が開発した装置は、アブラムスのものよりも高い周波数を使い、2つのエンハンサー(Dynamizer)を備えていました。この装置はアプトンと彼の同僚イニシャルから「U.K.A.C.O.」という名前で知られるようになりました。彼らは会社を設立しました。
彼は1960年代全体にわたって活動しました。彼らの方法は1本の植物だけではなく、植物が群生している土地全体に効果を及ぼすことが可能でした。こういう処置をするために、彼らはしばしば航空写真を利用しました。現在でも、ドイツや他のヨーロッパの国々では広大な公園や森林がラジオニクス的なバランス処理をされています。バランス処理のために使われる写真をラジオニクスでは「サンプル」または「WITNESS(証拠)と呼びます。」

生命エネルギー写真を開発した女性

人体の波動エネルギーの利用の話に戻りましょう。ラジオニクスに強く結び付けられた女性、ルース・ドラゥンが登場します。彼女はカイロプラクティック療法士で大変若くしてラジオニクスに接しました。彼女はおそらくアブラムスの病院で働いていたようで、とても直観力に優れた、主にひらめきに導かれて行動するタイプの女性だったようです。
彼女は、腹部に当てていたガラス棒のかわりに「スティックプレート」を使った最初の人だと言われています。彼女の「スティックプレート」は薄い金属でできていて、その表面は薄くゴムでコーティングされていました。「Rate(抵抗値)」が正しいと、腹部に当てたガラス棒と同じようにある種の「くっつく」反応が見られました。ラジオニクスについて彼女はアブラムスとは非常に異なった理論を持っていました。彼女の理論とは、人間は体内に「生命エネルギー」を持っていて、そのパターンが病気によって変化させられてしまうのだ、というものです。彼女は装置に適切な「レート」を置くことによって患者とラジオニクス装置との間の回路の輪を完成させました。適切な「レート」を適用することによって、病気が生んだ情報の狂いを修正することができたのです。(訳注:この「レート」というのは日本の場合「コード」と呼んだ方がわかりやすいかもしれません。現在も欧米では一般的に「レート」または「チューニング」と言われているようですが、皆さんがすんなり理解できるように、以下、「レート」として原文に出てくるものは「コード」という言葉に置き換えることにします。)
このようなバランスの方法について、彼女は非常に時代に先行していたと言えるでしょう。ドイツ製の「Mora」という名の装置がありますが、これは波動の「場」を反転するのに彼女とほとんど同じプロセスを使います。「Mora」は「スカラー情報の場」を使うわけではないので、ラジオニクスと全く同じものではないのですが。
彼女は考えを前進させました。彼女は、上にも述べたような「生命エネルギー」が全ての人間に存在して、各個人の「全体の情報」を持っているのではないかと考えました。量子物理学においても、生命というものを理解するためにホログラフ写真を比喩として使いながら、デビッド・ボームやその他の人たちによって彼女のような考え方が検討され始めていました。
彼女にはさらに時代に先行しているものがありました。彼女は人体の一部、例えば血液や髪といったものを、診断だけでなく治療(バランス)のためにも使っていたのです。彼女は彼女の言う「ラジオ・セラピー」という方法で初めて「遠隔治療」を成し遂げました。
彼女の装置はアブラムスのものを高度に改造したもので、9つのセッティングがありました。この装置で、非常にたくさんのコードが発見されました。彼女はまた「色」も使っていました。いくつかに分けられたノブを調整することによってプリセットされたさまざまな色の周波数を利用するように作られていたのです。この装置は「Homo Vibra Ray」という名前です。これは、人間と生命エネルギーの関係を表現したものです。
彼女の研究の大部分は、彼女が「Radio Vision」と呼んだラジオニクス写真の研究でした。彼女の離れたところから患者の病んだ組織を写真に写すことができました。この研究は後にジョージ・デ・ラ・ワーによって実現されることになります。

FDAによるドラウンの締め出し

第2次大戦の前に彼女はイギリスを旅して、この技術に興味を持つたくさんの医師たちにラジオニクスを教えました。これらの成功によって彼女はたくさんの友人を得ただけではなく、多くの人から妬まれることになりました。伝統的な医師たちはFDA(Food and Drug Administration アメリカ食品医薬品局)の力を借りて、ラジオニクスを、またそれによって成功をおさめているルース・ドラウンを葬りさろうしました。彼女は逮捕され、彼女の装置は破壊されました。彼女はその後釈放されましたが、その時にはすでに廃人同然で、これらの事件のショックから釈放後すぐに亡くなってしまいました。
ウィルヘルム・ライヒ博士のオルゴンエネルギーの研究についても、彼女の場合と同じような弾圧がありました。
トーマス・ゲイレン・ヒアオニマスもまたアブラムスの足跡を受け継ぐ、非常に重要なパイオニアのひとりです。彼はラジオニクス機器の技術者で、従来のプリズムに加えて電子管を使ったエンハンサーを持った装置を開発しました。彼は1949年9月27日に「物質からの放射物の感知とその量的な測定」という項目でアメリカの特許第2.482773号を取得しています。
彼の装置は大変有名になりました。というのは、興味を持ったたくさんの人々がアメリカ特許局に手紙を書いて資料を受け取り、自分たちで装置を作って果たしてそれが動作をするものかどうか試してみたからです。そしてそれらは……動作したのです!
アブラムスは次のように名言していました。電気的な波動装置は最終的には失敗するだろう、と。それは、スイッチが入っていてもいなくてもその装置が働いてしまうことが明らかになるからだ、と。また、ドラウンも電源なしの装置を作りました。彼女によれば、患者の生命エネルギーを電源として使用するからだ、というものでした。今回、ヒアオニマスの電源を持った装置が動作したことによって、ラジオニクスの有効性については再び激しく議論されることになったのです。

イギリス:ラジオニクスの先進国

ラジオニクスの成立が決定的になったのは最終的にイギリス人でした。イギリスは今日にいたるまでラジオニクス先進国であり続けています。第二次大戦における輸入制限で、当時イギリスはアメリカからラジオニクス装置を輸入することができませんでした。そこでイギリス人の技術者、ジョージ・デ・ラ・ワーが「ドラウン」型の装置を製造することになったのです。これを契機に広くラジオニクス装置の開発が始まりました。彼が研究を推進しているかたわらで、妻のマーゴリーはよくできたラジオニクスの実習方法を考案しました。レオ・コルテ、スティーブンスというふたりのラジオニクス信奉者とともに彼らは「デラワー研究所」を設立しましたが、そこは今でも世界的なラジオニクスの中心と考えられています。
デ・ラ・ワー夫婦は、コードをよく研究することが重要だと考えていたので、膨大な量を収集しました。病理学者たちとの共同作業によって、彼らは4000以上のコードを産み出しましたが、それらは現在でも使われています。何故なら、装置自体が電源の有無にかかわらず動作するので、コードというのは実は電気抵抗の値ではなく、むしろ、一連の数字やキーの配列そのものがさまざまな体内の器官や機能に働きかけるのではないかと考えられるようになったからです。
デ・ラ・ワーは、「Nodal point lattice」と彼が呼ぶ理論に基づいてある種のエネルギー交換を確認していました。彼の理論はバーのライフ・フィールド(生命場)の理論に刺激されていたものです。今日、これらのエネルギーは、ゼロポイントのエネルギー、スカラーエネルギー、などと言われ、形態形成の場において情報を伝達する担い手であると考えられています。
デラワー研究所では、より詳細で複雑なコードを作りだすためにたくさんの装置が開発・改良され標準化されました。現在ではそのコードは5000以上になっています。「Stick Plate(くっつくプレート)」も当時すでに知られていました。
デ・ラ・ワーはくっつく強さやコードの精度には、地磁気と関連して回転する磁石で影響をアた与えることができるのを発見しました。これはCritical Rotation Point=C.R.P(訳註・臨界方向点、みたいなものでしょうか)といわれ、アブラムスが患者を西の方向に向けさせて発見したものでした。
デ・ラ・ワー夫妻はまた、「デラワーカメラ」といわれるラジオニクス写真機を開発しました。サンプルをC.R.P.に向けると、体内組織の写真を一番よい状態で撮影することができました。このカメラは1955年にフランスの特許第1.084.318号を取得しています。(また、その他多くの装置がイギリスで特許を得ています。)ドラウンのカメラとデ・ラ・ワーのカメラはいくつかの点で明らかに異なっていましたが、共通していたのは、価値のある写真を撮影するには、「ある」人々が操作をしないといけなかった、という点です。ある種の強さのサイキックな力がないと、このカメラは正常には働きませんでした。このカメラはその役目を終えるまでに10000点以上の写真を撮影しました。

ラジオニクス協会

1960年2月27日、デ・ラ・ワー夫妻を含む11人のラジオニクス実践者たちによって「ラジオニクス協会」が設立されました。現在では500人以上のメンバーがいて、プロフェッショナルなラジオニクス療法士の会合や、免許の発行、3年間にわたる教育プログラムなどをおこなっています。
同じ1960年にデ・ラ・ワー夫妻は詐欺容疑での出頭命令を受けました。ラジオニクス装置を購入したある女性が、それを使うことができなかったのです。彼女は、ラジオニクスはインチキ科学だと主張し、この件は法廷で争われることになりました。この裁判は、ルース・ドラウンの場合とは違った形で進みました。数人の医師たちがこれはラジオニクスを追放するのに絶好のチャンスだと考えていたにもかかわらず、数多くの支持者たちが援軍に加わってくれたのです。一般大衆もデ・ラ・ワーのラジオニクス技術に大いに興味を示す結果となり、裁判はデ・ラ・ワー側の勝利に終わりました。またその一方で、彼らは裁判の膨大な経費によって破産の危機に瀕することになりました。訴えを起こした女性は貧しく、経費を払えなかったのです。
しかしながらこの事件によってイギリス国内におけるラジオニクスはその立場を確立し、もはや躍起になってその有効性を立証する必要性がなくなったのです。ジョージ・デ・ラ・ワーは1969年に亡くなり、妻のマーゴリーが1985年に亡くなるまでそのあとを引き継ぎました。その後はレオ・コルテが、そして現在ではデ・ラ・ワー夫妻の娘、ディアンヌが引き続き研究を続けています。
ヨーロッパ各国におけるラジオニクス療法士たちは、現在ではラジオニクスの知識を一般に広めるために団結しています。イギリス・アメリカ・ドイツ・スペインにラジオニクスの団体が存在しています。
イギリスにおけるラジオニクスの輪のなかで重要な3人は、マルコム・レイ、デビッド・タンズリー、そしてブルース・コーペンでしょう。
デビッド・タンズリーは、東洋哲学に影響された新しいラジオニクスのコンセプトを作り出しました。ラジオニクス協会の中で大きな影響力を持っていた彼は、例えばエネルギーのセンターとしてチャクラ、といったコンセプトを導入することで従来のラジオニクスをより波動的な生命の領域に前進させました。ブルース・コーペンは「ラジオニクスコンピューター」と彼が呼んでいるさまざまな種類のラジオニクス装置を作りだしています。ただし、彼の「コンピューター」は現在の実際のコンピューターとは全く関係のないものですが。

マルコム・レイと彼の装置

マルコム・レイは違った道を歩みました。彼は「スティックプレート」を使い、またデビッド・タンズリーがそうであったように、数字としてのコードを使わずに幾何学的な図形を使いました。彼は数字でできたコードを使うよりも幾何学図形を使った方が、より正確な反応が得られる、と感じていました。現在の科学的な理解からすると、彼は右脳半球をより強く働かせる方法をとった、ということです。彼にとってのコードは「Manifestatated thought pictures(明示された思考の絵)」で、それを診断や治療のための装置のチューニングや測定に使いました。幾何学的な表現は主にホメオパシー物質のポテンタイズの目的に使われたので、彼は「処方シュミレーションカード」と呼んでいました。この「明示された思考」という側面はヒアオニマスの装置がなぜ電源を入れなくても使えたのか、ということを説明してくれるかもしれません。

ベゴッティ・ボード(The Pegotty-Board)

幾何学的なコード、といわれるものは、「ベゴッティ・ボード」といわれる新たなラジオニクス装置で脚光を浴びることになりました。この装置は、例えば背骨や筋肉組織に働きかけることができました。コードを設定するためには、(その幾何学的図形と)同じような形にボード上の「ピン」を差し替えるのです。それは、たてよこ12本×10本のスペースにピンを差して幾何学的なコードの図形を表現する、という構造のものでした。
また、French Universal Pendulam (振り子)を使って、さまざまな「角度」や「位置」からもコードが開発されました。このことは、占星術や星座といったものに新たな光をあてることになりました。ラジオニクス的に見れば、それらは占星術的なコードと見ることができたのです。

コンピューターの登場

その後、アブラムス博士によってラジオニクスが始められた国・アメリカで、最新の最も進んだ装置が開発されることによって、これら一連の環が閉じられることになりました。物理学者で電気技師、また発明家であったウィラード・フランク博士がコンピューターを使った装置、「SE-5 Intrinsic Data Field Analyzer」を1986年に開発したのです。これはラジオニクスの装置ではありませんが、「固有情報の場(Intrisic Data Fields=IDF)」を分析しバランスするものとして知られています。ラジオニクスは、その現象が含んでいるものを理解することには使われていません。むしろそのギャップは広がっています。この装置は非常に応用のきくものなので、今では、鉱山関係、農業関係、その他のビジネスにも使われており、またその使用法は日々拡大しています。
デ・ラ・ワーやドラウン、コーペンたちの装置のように、SE-5も「スティックプレート」を検知器として使っています。しかしそれは、通常のゴムの皮膜ではなく、電気回路の基板になっていて、その下には幾何学的に配置された回路とスカラー・アンテナが配置され、スカラー情報の場、IDFに正しくチューニングし、それを増幅してくれるような構造になっています。
コンピューターを使うことによって、たくさんのダイヤルを廻してコードを入力する必要はなくなりました。単に装置についている小さなポケットコンピューターに入力してやるだけでよいのです。シンプルな分析方法のおかげで、コードを探すのに必要な時間は非常に短縮されました。使用可能なコードの数は現在、14000以上に達しています。

おわり

アルはこの文献が終わるときにはまだ戻っていなかったので、我々は次に何が起こるのか不安に思いました。すると、ホログラム映像が、SE-5を覗きこんでいる女性の映像を映しだしました。彼女の横にはさらに何台かのSE-5が並んでいます。再び音声プログラムが始まりました……。

時のご来光堂 玉川 準陽
http://tokino.net/
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